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横浜市内を中心にご案内する、NPO法人 神奈川区いまむかしガイドの会です。

神奈川宿

神奈川宿歴史の道

神奈川宿は東海道五十三次の日本橋を出て品川、川崎に次ぐ3番目の宿場です。その地名が県や区の名称となりました。宿場に沿った海は、鎌倉時代から神奈川湊として内陸部への物資の集積地として栄えました。
横浜開港時には各国の領事館が置かれ外交上の重要な舞台となりました。また数多くの寺院も歴史の役割をはたしてきました。関東大震災と第二次世界大戦で歴史遺産を数多く失いましたが、よく見ると当時の面影を発見することができます。江戸時代の街道に思いを馳せ、神奈川宿歴史の道をガイドと共に散歩してみてはいかがでしょう。 

神奈川区役所発行パンフより
1.「浦島太郎」伝説
慶運寺にある横浜市地域有形民俗文化財「浦島太郎伝説関係資料」によると、『相州三浦の住人浦島太夫が丹後の国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が20歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたりそこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦に帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った。』とあります。
2.「神奈川」の地名
いくつかの言い伝えがありますが、「神奈川」が県名や区名となりました。
 @『江戸名所図会』の「上無川(かみなしがわ)」の項に、次のように書いてあります。
  神奈川本宿の中の町と西の町との間の道を横切って流れる小溝を上無川という。これにかかる二間たらずの橋を上無橋という。  常に水がかれてわずかな流れで、水源がさだかでないゆえに上無川という。カミナシガワのミ・シを略して、カナ川というよう  になった。同様、東京の品川は下無川、すなわちシモナシガワで、モ・シをはぶいてシナ川となった由、斎藤徳元という人の説  を紹介しています。この上無川は神奈川小学校の東京寄りの小道がその跡と言われています。
 A 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、上無川から舟にお乗りになる時、その宝剣が水面にうつり金色に輝いたので  金 川(かながわ)と名づけたとする話があります。
 B 源頼朝が金川の風光をめで、神大いに示すの地として、神大示川が神奈川となり、それが金川にかわり、さらに「神奈川」に  もどったという伝えもあります。
 C 現在の神奈川区役所の近くを流れる滝の川がもとカナ川あるいはカヌ川と称し、これが神奈川の起こりであるともいいます。

神奈川宿のみどころ(1)

旧長延寺・土居跡 京浜急行・神奈川新町駅の近くに、神奈川通東公園があります。ここに昭和40(1965)年に移転するまで長延寺が建っておりました。 開港時にはオランダ領事館に充てられました。明治期の美術家岡倉天心が幼少時この寺に預けられ漢学を学んだそうです。
また、ここは江戸から神奈川宿への入口にあたり、江戸見附といわれる土居(土手のようなもので街道両脇に幅4.2m高さ約2.5mの土盛りをし、その上に竹矢来・竹の柵を設置)がありました。
 良泉寺   海岸山良泉寺といい、浄土真宗大谷派に属するお寺です。横浜開港時、領事館として使用の申し入れがあった時、14世住職 は自ら本堂の屋根を壊し、修理中であると伝えてこれを断ったといわれています。 境内には、横浜で生糸商「糸屋」で成功し「天下の糸平」といわ れた田中平八、駿河出身で茶専門大問屋「岡野屋」の岡野利兵衛、筝曲山田流代表で盲目の人間国宝越野栄松が眠っています。
 笠のぎ稲荷   この神社は今から約1070年前の天慶年間(938年〜947年)に、観福寿寺(浦島寺)の僧侶が、隣域の山腹に社殿を建立し、伏見稲荷大社の分霊を勧請したと伝えられています。この神社の前を通行する笠をかぶった人の笠が自然に脱げ落ちたので「笠脱稲荷」と呼ばれるようになり、その後、笠脱の脱を「禾」へんに「皇」に改め「のぎ」と読み、笠のぎ稲荷としました。文永11(1274)年 蒙古襲来の折に鎌倉幕府8代執権北条時宗が銘刀と神鈴を奉納し、国家の安泰を祈願したといわれています。 境内にある板碑は鎌倉時代末期から南北朝時代の慰霊碑で、この大きさの板碑は極めて少なく横浜市指定有形文化財です。
 能満寺   能満寺は鎌倉時代の創建で、高野山真言宗海運山満願院能満寺といいます。土地の住人内海光善が海中から、朽木をすくいあげ供養したところ「虚空菩薩像」に変わったと伝えられています。内海家は神奈川宿の本陣をつとめた名家で、徳川家康は東海道53宿を定め本陣に御朱印状を交付しましたが、神奈川宿で御朱印状を受領したのは内海家でした。1700年頃内海家当主が若くして亡くなったので縁のある石井家が神奈川宿石井本陣となりました。

神奈川宿のみどころ(2)

東光寺 平尾山本願院東光寺といい、真言宗智山派のお寺です。 戦国時代に江戸城を築いた太田道灌が活躍した頃、神奈川付近の所在武士団の首領であった平尾内膳は、小机城で道灌と戦って敗れました。内膳は剃髪して仏門に入り、戦友の霊魂の供養に精進しました。それを聞いた道灌は感心し、自分の守護仏、薬師如来像に「海山をへだつ東の御国よりはなつ光はここもかわらじ」という歌を添えて内膳に贈りました。東光寺の寺号は、この歌が由来となっています。 境内に半面焼損した公孫樹(いちょう)の巨木があります。
 慶応4(1868)年の神奈川宿の大火と第二次世界大戦で焼け焦げ伐採の危機にありましたが、保存され再生して今日に至っています。
金蔵院   神鏡山東曼荼羅寺といい、真言宗智山派のお寺です。 神奈川宿内で最古(寛治元(1087)年、平安時代末期)で堀河天皇の命を受け勝覚法印が開創した勅願寺。 源頼朝が戦勝を祈願したと言われています。 また、徳川家康も宿泊休息所としておりました。 出立の際、境内の紅梅を愛で一枝を折って持ち帰ったといわれ、家康公「お手折りの梅」と有名になり、以来住職は毎年1月に紅梅一枝を江戸城に献上していたといわれております。 現在の紅梅は三代目。
熊野神社   熊野神社は、平安時代に紀伊国の熊野権現を分祀したといわれ、昔は権現山(現 幸ヶ谷公園)にありました。江戸時代中期になって金蔵院の境内に移転しました。その後、明治初めの神仏分離令により金蔵院から分離しました。境内には、慶応4(1868)年の神奈川大火、昭和20年5月の大空襲の大火を生き抜いた「火伏の銀杏」と呼ばれる大銀杏があります。また、境内一帯が米軍に接収された時、2m近い「狛犬」も京浜急行の土手に放置されましたが、現在は修復され境内に鎮座しています。
高札場   高札場は、幕府の法度や掟を記した木札を掲示した施設で滝の橋のたもとにありました。宿場の施設として重要で領民の統治に欠かせない施設でしたが、明治6年に廃止されました。写真は、神奈川町本陣石井家文書をもとに神奈川地区センター前に復元したもので、横5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものです。

神奈川宿のみどころ(3)

成仏寺 正覚山法雨院といい浄土宗のお寺です。 嘉永7(1854)年、横浜で行われた日米和親条約交渉の全権委員・林大学頭の宿舎になり、日本開国の最前線基地でした。 開港3か月後にはアメリカ人宣教医・ヘボンが来日し、その宿舎となりました。 2週間後にブラウンとシモンズも来て、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に、シモンズは宗興寺に住みました。 日本で初めて日曜礼拝も行なわれ、領事館員、商館員、水兵、船員が参加して、この寺から讃美歌が聞こえてきたそうです。
慶運寺   滝の川沿いに慶運寺があります。 吉祥山茅草院といい、浄土宗知恩院派のお寺です。 開港時にはフランス領事館にあてられました。 東神奈川の山側の浦島丘にあった観福寿寺に浦島伝説が伝わっていましたが、慶応4(1868)年の大火で焼失したため、浦島観世音や石塔がこの寺に受け継がれ、慶運寺は浦島寺とよばれるようになりました。 秘仏浦島観世音は12年に一度、子年に御開帳されます。
 浄瀧寺   妙湖山浄瀧寺といい日蓮宗池上本門寺派のお寺です。開港当時にイギリス領事館として使用されました。鎌倉時代、日蓮上人が鎌倉へ向かう途中にこの寺へ立ち寄った際、開基妙湖比丘尼は日蓮に心酔し弟子となりました。日蓮が佐渡へ島流しされたとき、日蓮の安全を祈願して、日蓮上人像を作り片目を入れ、日蓮上人が帰還したとき両目を開眼したといわれています。
 境内には、青木本陣鈴木家の墓碑、大旅籠の大国屋、横浜に進出した貿易商の鴨居屋など神奈川宿関係者の墓地が多くあります。
 宗興寺   開塔山宗興寺といい曹洞宗のお寺です。創建当初は真言宗のお寺でしたが、寛文年間(1596年〜1615年)に曹洞宗に改宗して現在に至っています。ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が成佛寺を宿舎としながら宗興寺を施療所として6か月間で約3,500人の患者を無償で診療しました。また安政6(1859)年ヘボンに半月遅れで婦人と共に来日したシモンズが宗興寺に住みました。シモンズは、横浜病院(後の十全病院、現横浜市大病院)医院長を勤め、横浜の近代医学の先駆者といわれています。

神奈川宿のみどころ(4)

権現山 神奈川宿の絵図の街道北側にひときわ高い山が描かれていることが多く、その山を権現山といいます。幕末から明治にかけて台場や鉄道用地の埋立のため削りとられ山はありません。現在は幸ヶ谷公園・幸ヶ谷小学校となっています。権現山は戦国時代、関東管領上杉方の上田蔵人の砦がありました。蔵人が上杉に背き、北条早雲に内通したため上杉方2万の大軍と10日間の激戦の末、蔵人の砦が落ちたといわれています。
洲崎大社    洲崎大社は源頼朝の創建といわれています。頼朝は石橋山の合戦に敗れ、安房国洲の崎安房神社で再起をはかり、この地に安房神社の分霊を祀ったのがこの社の始まりといわれています。洲崎大社の鳥居前の旧東海道を横断して少し下った先に船着場がありました。かつて6月の例大祭には、安房洲崎神社の心霊と海上で出会うために、双方同時に大神輿を海中にかつぎ入れる「お浜下り」という神事が行われました。
普門寺   普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属します。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことによります。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味で普門とされたと伝えられています。 江戸時代後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物が建ち、開港当時、イギリス海軍士官の宿舎として使用されていました。
甚行寺   明暦2(1656)年第一世意圓上人が本山専修寺第14世堯秀上人を招いてこの寺を草創したと伝えられ、真色山と号し浄土真宗高田派に属します。開港当時、本堂は土蔵造りでしたが、改造を加えて一時フランス公使館として使用されました。大正12年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和20年の横浜大空襲でも再度全焼しました。昭和46年に本堂、客殿が再建されました。

神奈川宿のみどころ(5)

鉄道用地埋立てと高島嘉右衛門 明治5年10月、日本で最初に新橋(現汐留)〜横浜(現桜木町)間に鉄道が開通しました。神奈川から野毛までは地形上、海の上を走らせることになり、埋立工事に挑んだのが高島嘉右衛門でした。長さ約1.4q、幅80mの鉄道用地埋立てを晴天140日間で完成させ、埋立てで得た私有地は高島町と命名され現在に残っています。高島嘉右衛門は日本初のガス灯設置、水道事業、高島学校の設立等、実業家として活躍した後、高島易断を創設しました。
(図は明治14年横浜実測図部分 横浜開港資料館蔵)
青木橋   この橋から東神奈川方面を見て右側の幸ヶ谷公園のある丘と左側の本覚寺のある丘とは地続きでした。この丘を切り開き、明治5(1872)年に新橋〜横浜間(現桜木町)に鉄道が開通し、鉄道をまたいで旧東海道を結んで架けられたのがこの青木橋です。横浜駅が現在地に移設されるまで、青木橋周辺は鉄道(JR)・横浜電気鉄道(市電)・京浜電気鉄道(京急)・東京横浜電気鉄道(東急)各線の神奈川停車場が集中し、交通の要所として賑わいました。
本覚寺   青木山延命院本覚寺といい曹洞宗のお寺です。開港当時アメリカ領事館に充てられました。神奈川領事であったドールは、庭の松の枝を払い落とし木の上に星条旗を掲げたといわれます。そして山門を白ペンキで塗りました。今も獅子頭に痕跡が残っています。
ハリスとの日米通商友好条約締結時に横浜開港を提唱した岩瀬忠震の顕彰碑が山門前に建っています。
また、生麦事件の際、負傷したマーシャルとクラークは本覚寺へ逃げ込み、ヘボン博士が治療して一命をとりとめました。
三宝寺   コンクリートの高架橋上に本堂を構える異彩を放つお寺が、浄土宗瑠璃光山医王院三宝寺です。参道も高島山から出入りするようになっています。第21世住職弁玉和尚が著名で、幕末から明治にかけて文明開化の新事物を巧みにとらえて長歌に詠い注目されました。長歌集「由良牟呂集(ゆらむろしゅう)」が、弁玉が没する1年前の明治12(1879)に門人により出版されています。

神奈川宿のみどころ(6)

大綱金刀比羅神社 この社は、はじめ勝軍飯綱大権現と称して、現境内のある裏山即ち飯綱山にありました。文政年間(1818〜1829)に山下に社殿を移したのが現在の境内地です。
海運の守り神として、神奈川湊に出入りする廻船問屋の信仰を集め、船乗りが航海の安全を祈願して賑わいました。
鳥居の脇には日本橋から7つ目の一里塚がありました。
台町・茶屋   神奈川宿の台町は、袖ヶ浦と呼ばれた景勝地で、十返舎一九は「東海道中膝栗毛」の中で「ここは片側に茶店軒を並べ、いずれも座敷二階造り、欄干つきの廊下桟など渡して、浪うちぎわの景色いたってよし」とうたわれ多くの茶屋が並んでいました。江戸時代中期以降、大山参詣、富士登山、伊勢参り等庶民の旅行が盛んになり、西に向かう旅人にとっては江戸湾を遠望できる最後の場所であり、江戸に向かう人にとっては一息入れる休息所で賑わった所です。茶屋の中でも「さくらや」が有名で文久3(1863)年「田中家」となり、現在五代目の女将が江戸時代からの伝統を引き継ぎ営業しています。
関門跡   開港後、外国人殺傷事件が多発したうえ、犯人を捕らえることができずに、幕府は諸外国から激しく非難されました。子安、台町、石崎、暗闇坂、吉田橋、宮の河岸渡船場等に関門と番所を設け外国人の保護と武士の取締りに当りました。明治4(1871)年に廃止されました。
台町から横浜駅 西口のゴールをめざす   「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」(安政5年)に台町から袖ヶ浦へ下る急な階段が4か所描かれています。それらの階段を下りきった所は海でした。この「神奈川宿歴史の道」のゴール地点は、現在も当時の面影を色濃く残す急な階段を下り、江戸時代は海の中だった鶴屋町から横浜駅西口のゴールをめざします。